性善説というと聞こえはよいが、この業界は時に性善説が災いをもたらすことがある。
性善説、性悪説とは以下のような考え方をいう。
性善説
(人の本性は善であり)人を信じるべきだという考え方
性悪説
(人の本性は悪であり)人は疑ってかかるべきだという考え方
性善説と性悪説のよくある誤解によれば、そもそもこれが誤解であるそうだが、私は他に適切な言葉を知らないので誤解のまま使うこととする。
私は以下のようなケースで性善説が災いしていると感じている。
1)設計書には間違いがない
2)ちゃんとプログラムを作れば正しく動く
3)ちゃんと管理すれば間違いは起こらない
問題は、ちゃんと動かなかったときにどうするか、ということなのだが、それを考えようと言い出すと途端にK.Y扱いされるので困ったものである。
ちゃんとやるだろうことを私も含めて皆が信じている。そしてシステムはちゃんとやれば動くはずである。もし動かなければ動くまで責任もってやるっていってる。なのに、それのどこが悪いのか?
私に言わせれば、「動かない場合のことをちゃんと考えないのが悪い」ということであるが、どうもうまく伝わらない。
ちゃんと動かすことを考えるのだから、動かない場合のことなんて今は考えられないことはよく分かる。ちゃんと動けばそれが杞憂に終わり、そして時間をかけて考えた「動かない場合のこと」は無駄になることになることも分かる。それでも、自分の力でできない可能性が少しでもある場合には、できない場合の対応策は考えるべきである。私はそれを考えない人は無責任に見えて仕方がない。
できない場合の対応策を考えてもらえない場合は、とりあえず、「何が起きても私は知らないからね。」とか、「その日は出張だから絶対にヘルプできないよ」ということで自己防衛することにしている。さらに、「私はうまくいかない方に賭ける」といって脅すことさえある。別に失敗する原因を知っているわけでも確信しているわけではないのだが、システムというのは大抵動かないもので、逆にシステムがちゃんと動いているのは奇跡のなせる業であり、たまたま動いているにすぎないと思っているぐらいがちょうどよい。(これは自分自身の経験に基づくものである)
しかし、性善説の輩は失敗することを全く考えない。
そして、案の上、失敗して私に泣きつく。
「ごめんなさい。私が間違いでした。だから何とかしてください」
私は君を何とかしたい。
0 件のコメント:
コメントを投稿